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1.水とともに生きる

治水・利水の知恵
ふるさと文化伝承館(市文化財センター)

「ふるさと文化伝承館」が新しく生まれ変わって平成21年6月にリニューアルオープンしました。
愛称は「みなでん」
これからも皆さんとともに作り上げたい!という願いもこめて
「み・ん・な・で、み・な・で・ん」
って覚えてください!

世界的に知られる国重要文化財の「鋳物師屋遺跡出土品」をはじめ、市内の遺跡から出土した土器や石器、昔懐かしい民具などを展示しています。

当館では展示パネルを少なくし、スタッフによる展示案内などお客様とのコミュニケーションを大切にしています。不必要な場合にはお申し付けいただき、また、ご質問などはお気軽にお問い合わせいただければと思います。


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野牛島バス停(前御勅使川)

 野牛島バス停の前の道、県道甲斐芦安線は御勅使川の古い流路で、「前御勅使川」、ちょっとなまって「まえみでえ」と呼ばれています。
戦国時代には御勅使川の本流であったと言われますが、明治31年に六科将棋頭の上流が締切られ、前御勅使川の歴史に幕が下ろされました。
昭和に入るとこの河原を利用し四間(約7.2m)道路が敷設され、戦後に開発が進み、現在への街並みへと変わっていきます。
写真は昭和12年頃の野牛島停留所前。旧河川に道路が作られた直後であり、河川の面影を見ることができる。

[画像:個人所有]

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県道甲斐芦安線(前御勅使川)

芦安から信玄橋へ通じる県道甲斐芦安線は御勅使川の古い流路で、「前御勅使川」、ちょっとなまって「まえみでえ」と呼ばれています。戦国時代、御勅使川の本流はこの前御勅使川だったと云われています。江戸時代から明治時代には、本流は現在の御勅使川に移り、増水時のみ水が流れていたようです。明治31年に六科将棋頭の上流が締切られ、前御勅使川の歴史に幕が下ろされました。昭和40年代ごろまでは旧河原の両岸に不連続の堤防、かすみ堤が残されていましたが、現在ほとんどの堤防は削平され、道路として利用されています。
写真は明治29年に起きた大水害後、堤防を復旧している様子が写されたもの。旧運転免許センター(野牛島)付近。

[画像:個人所有」


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石積出

砂礫と石で造られた堤防で、一番堤から五番堤まで残されている。武田信玄の築堤と伝えられるが、史料で裏づけられていない。少なくとも江戸時代には築堤され、有野の田畑や集落、さらに下流の御勅使川扇状地に立地する21ヶ村を守る役割を果たしていた。国指定史跡(一~三番堤)

[県立博物館蔵]


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石積出 一番堤

石積出の中で、最も上流に築かれた石積みの堤防。現存している長さは約70m。3段構造で、2段目に石の大きさ、積み方の違いが見られ、少なくとも2回修復されていることがわかる。


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石積出 二番堤

地表に露出している部分だけでは、1段積みの構造。水流があたる川表側に補強の石積みが行われている。


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石積出 三番堤

二段積みの石積み堤防。現存している長さは約100m。先端部の一部が発掘されており、堤防の基礎を守る根固めに井桁状に丸太を組み合わせ、中に石を詰める「木工沈床」が用いられていることがわかっている。


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石積出 四番堤

先端部の一部で発掘調査が実施されている。調査の結果、石積みの土台として梯子土台が用いられ、根固めには木工沈床が使われ、さらに川表側には鉄線の蛇籠が並べられていた強固な構造であることが明らかとなっている。


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水宮神社

御勅使川扇状地の扇頂部に位置し、扇状地全体の治水の要とも言える有野地区には、水害防護の水宮神社が祀られている。寺記では天長11年(834)に起こった大水害の際、天皇より勅使が遣わされ、水の神である水波能女命(うずはのめのみこと)をこの地に祀ったのが始まりと伝えられている。大正15年水宮神社拝殿を改修する際にも、下流の村々から寄付がよせられた。


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矢崎家住宅

江戸時代前期の建物。甲府盆地西部では最も古い民家で、徳島堰を完成させた矢崎又右衛門のゆかりの家でもある。矢崎氏は江戸時代を通じ有力農民として有野村の名主を務めていた。市指定建造物。


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徳島堰

徳島堰は韮崎市上円井(かみつぶらい)で釜無川から取水し、南アルプス市曲輪田新田(くるわだしんでん)まで約17kmを結ぶ灌漑用水路。

江戸時代の寛文5年(1665)江戸深川の徳島兵左衛門(とくしまひょうざえもん)によって開削が始められた。
2年後には曲輪田まで通水に成功するが、大雨によって二度堰が埋没すると兵左衛門は事業から手を引き、その後甲府藩が事業を引き継ぐ。
甲府城代から堰の復旧工事を命じられた有野村の矢崎又衛門(やざきまたえもん)は、私財を投じて工事に取組み、寛文10年に工事が完成し,翌11年に「徳島堰」と命名された。
堰の開削によって耕地が広がり、曲輪田新田や飯野新田、六科新田など新たな村々が開かれるなど、水不足に悩む地域に多大な恩恵がもたらされた。
現在でも徳島堰の水は、水田だけでなくスプリンクラーに導水され、市内の桃やさくらんぼを潤し、フルーツ王国南アルプス市を支えている。


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桝形堤防

徳島堰の工事にとって最大の難所は、川幅の広い御勅使川の横断であった。完成当初は溝を掘り板で堰きとめる「板関」と呼ばれる開渠で通水していたが、少なくとも18世紀初頭には木製の埋樋(暗渠)に変更される。幕末頃には暗渠の壁が石積みとなり、明治から大正時代に入ると粗石をアーチ状に積む「眼鏡」と呼ばれる工法に改修される。
六科村や野牛島村は、その立地から御勅使川の河原の中で暗渠となっている徳島堰を一度開口して取水しなければならず、増水時にその取水口を守る将棋の駒の形をした堤防が枡形堤防である。取水された水は後田堰を通して六科将棋頭の中に導水され、水田に利用されてきた。
平成26年10月6日に国指定史跡に追加指定されました。


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将棋頭(六科水田)

将棋頭は、その名のとおり将棋の駒に見立てられた石積みの堤防で、国の史跡に指定されている。武田信玄が築堤し、御勅使川の流れを分流したと伝えられてきたが、史料的裏付けがなく初現は不明である。


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御勅使南公園

御勅使南公園の中にも、将棋頭から続く御勅使川右岸を守る石積みの堤防があります。
公園の管理事務所の南、駐車場の入り口付近から東西に堤防を見ることができます。この堤防の北側は現在では様々な遊具や、ラグビー場などが広がりますが、昭和初期まで御勅使川の河原が広がっていました。


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不連続堤

途切れることなく一直線に延びる堤防。洪水から人々や町を守る堤防がこうした姿であることは現在では当たり前ですが、少なくとも江戸時代から明治時代の堤防では、途切れ途切れの姿が普通でした。この不連続の堤防は明治時代ごろから「霞堤」と呼ばれるようになります。
御勅使川の堀切橋付近を見てみましょう。前御勅使川に比べると、堤防と堤防の間、つまり遊水地が広く確保されています。増水した時には途切れた部分から水を逆流させ、一時的に水を蓄える機能も果たしていたと考えられます。このように霞堤は、先人の長い経験を踏まえながら「あふれる」ことも考えて造られた堤防でもあるのです。


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堀切

韮崎から続く竜岡台地を信玄が掘り抜いたとの伝承が残る水路。近年では御勅使川の水流によって、自然に掘りぬかれたとする説もある。人為的にせよ、自然にせよ、堀切北東に隣接する御座田(みさだ)遺跡の発掘調査によって、すでに13世紀には、堀切が存在していた可能性が指摘されている。


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能蔵池

湧き出た御勅使川の伏流水をせき止めて造られたため池。池には赤牛の神様が住むといわれ、赤牛が村人に椀や膳を貸してくれる昔話が今に伝えられている。中島には水神でもある弁才天が祀られている。


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源堰堤

大正9年に竣工。高さ7m、長さ109.1mある大型の堰堤。芦安、藤尾堰堤とともに現在でも大正期の姿をとどめている数少ない堰堤のひとつ。芦安堰堤と並び、「御勅使川治水の双璧」と呼ばれていた。現在でも私たちの生活を支えている。

[画像:個人所有]

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芦安堰堤

芦安堰堤アーチ式工事写真。大正14年7月23日撮影。

[画像:個人所有]

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了円寺

徳島堰を作ったの徳島兵左衛門ゆかりのお寺。兵左衛門夫妻のお墓もある。当時このお堂にもロタコ工事で朝鮮人労働者が寝泊りしていた。


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野牛島・西ノ久保遺跡

西に大塚遺跡、南に野牛島・大塚遺跡、東に石橋北屋敷遺跡に囲まれた遺跡。古墳時代前期や奈良・平安時代、中世の集落跡。遺跡内の小さな谷底から破片どうしが融着し形が歪んだ須恵器の大甕片が出土し、遺跡周辺に須恵器窯が存在する可能性が指摘されている。また注目される遺構として、炭焼の平窯や和鏡が副葬された土坑墓、中世の道路跡なども発見されている。


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大塚遺跡

(写真は山梨県立考古博物館所蔵)


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野牛島・大塚遺跡

奈良・平安時代から中世までの集落跡。奈良・平安時代の住居跡は現在の甲西バイパスより西側に広がるのに対し、中世の溝跡や土坑墓はより能蔵池に近いバイパスの東側を中心に発見されている。野牛島集落の発祥は能蔵池北側であるとの伝承があるが、遺跡の調査結果からその伝承は中世以降能蔵池周辺に集落が移動した後の状況を伝えていると考えられる。写真は平安時代の住居跡。


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石橋北遺跡

野牛島・大塚遺跡、野牛島・西ノ久保遺跡と隣接した遺跡で、奈良・平安時代から中世までの集落跡が発見されている。とくに注目されるのは、中世の遺構である。13世紀の竪穴建物2軒、14世紀代の幅約4mで東西に走る両側に側溝をもつ道路跡やそれに並んで区画溝が発見されており、この時期に計画的な土地開発が行われた可能性が指摘されている。また16世紀後半の土坑墓も発見されており、この地域が墓域へ移り変わった変遷も明らかとなっている。
(写真は山梨県立考古博物館所蔵)

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立石下遺跡

平安時代の集落跡。13軒の住居跡や炭焼窯が発見された。
(写真は山梨県立考古博物館所蔵)

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百々・上八田遺跡

平安時代から中世の集落跡 調査では80個体を超えるウマ・ウシの骨が出土し、「八田牧」の存在を彷彿させ、ウマの存在が甲斐源氏活躍のを裏付ける。
写真は 炉から出土したタイの堆骨(縄文時代後期)


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榎原・天神遺跡

前御勅使川右岸に立地する。平安時代~中世の集落跡。10世紀代の竪穴式住居跡が2軒発見された。またウマの歯が出土した中性の区画溝跡も見つかっている。


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坂ノ上姥神遺跡

御勅使川扇状地上に3遺跡が隣接している。縄文時代後期や古墳時代後期、奈良・平安時代から中世まで複数の時代に渡る遺跡である。特に縄文時代後期の敷石住居跡の炉から鯛の堆骨が発見され、海産魚を食料とした県内最古級の資料として注目された。奈良・平安時代では多数の住居跡や溝跡も発見されており、溝からは馬の歯も出土した。

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お熊野堤

野牛島にある旧運転免許センター南側の土手は、
明治31年まで流れていた前御勅使川の右岸を守る堤
防跡です。
古くは「お熊野堤」と呼ばれていました。


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九頭竜神(上高砂)

南アルプス市八田地区上高砂区には、洪水除けの神様として勧進された九頭龍神の祠が神明川沿いに3箇所あります。そのうち、一番北に位置する江戸時代に勧進された上組講中の九頭龍さん(北端の庚申塔のそば)では、現在も九頭竜神の石造物を覆うオコヤを新調する行事が受け継がれています。ここのオコヤは、骨組みは木で、側壁や屋根は麦わらで作られます。


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高砂渡し

昭和7年にコンクリート製の旧信玄橋が開通するまでは、上高砂と龍王を隔てる釜無川を渡るには、「高砂渡し」と呼ばれる渡船を利用する必要がありました。ただし、渡しが運航するのは5月頃から12月中旬までで、水の少ない12月から4月までは仮橋がかけられていました。

[画像:八田村誌]


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矢崎家住宅

有野の故矢崎徹之介氏の居宅で、甲府盆地西部では最も古い民家である。建てられたのは、江戸時代初期、寛文以前の建築である。
矢崎氏はもと青木氏の出で、武田信玄公の時代に有野に所領を得て、信州からここに移った地侍であった。その後、江戸時代を通じ有力農民として名主を勤めている。
広い屋敷内には南に長屋門を構え、母屋の西北に文庫蔵が続き、北側にも大きな土蔵がある。
古さの見どころは、13本残っている柱にハマグリ手刃の跡が見られること、屋根裏の小屋組は当初のままで、小屋東に貫が離れて交わっていることなどである。


所在地/南アルプス市有野1204
所有者、管理者/個人
指定年月日/昭和53年2月16日
備考/


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能蔵のエドヒガンザクラ

本樹は能蔵池の北西隅にある。江戸彼岸桜という名称は、「東国(関東)の彼岸桜」という意味で、ゆえに「東(あづま)彼岸桜」ともいう。
根回り4.5メートル、目通り1m、樹高8メートルの大樹である。樹勢は旺盛で、毎年4月上旬に薄紅色の美しい花を咲かせる。

所在地/南アルプス市野牛島2704
所有者、管理者/野牛島区
指定年月日/昭和51年3月1日
備考/


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水宮神社の社叢

水宮神社は有野部落の北部、御勅使川近く鎮座し、水波能女命(みずはのめのみこと)を祭神とする水害防護の神社である。御勅使川は大扇状地をつくっただけに、有史以来も大氾濫をくりかえし、特に天長11年(834年)の洪水は大惨事をもたらし、救恤のため勅使が派遣された。時の国司藤原貞雄は治水に努力し、当社に配祀されている。江戸時代、有野ほか21ケ村の鎮守として、御勅使川の共同水防が行われてきた。また、当社の森社叢は、マツが主要樹木だが、その他にアサダ2本、クマシデ3本、モミ10本、ケヤキ1本で構成されたいます。この中のアサダはクマシデ科の落葉高木で、本県では珍しい樹種で貴重な存在です。


所在地/南アルプス市有野1298
所有者、管理者/水宮神社
指定年月日/昭和61年9月12日


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九頭竜神のおこや

南アルプス市八田地区上高砂区には、洪水除けの神様として勧進された九頭龍神の祠が神明川沿いに3箇所あります。
7月の最終日曜日に、これらの場所で夕方からお祭りが行われています。


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野牛島のお浅間さん

野牛島のお浅間さんは現在は民家の間にひっそりと存在していますが、この場所は、かつては見晴らしのよかったであろう前御勅使川(御勅使川の旧流路)の野牛島側堤防上です。富士山の眺望も楽しめたことでしょう。
 野牛島のお浅間さんには、富士塚も造られており、地域の富士信仰の拠点でした。
 野牛島の中島家に残されていた日記には、江戸時代の1835年(天保6)6月29日~31日にかけて大風が吹いて川々が大荒となり「前御勅使川通富士塚弐番三番堤急破いたし・・・」と記されており、当時より堤防上に富士塚が存在していたことがわかります。


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流転の村 ~釜無川の流れに翻弄された浅原村~①(ふるさとメール2008年9月12日号)

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流転の村 ~釜無川の流れに翻弄された浅原村~②(ふるさとメール2008年10月1日号)

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信玄伝承の治水事業 ~暴れ川御勅使川を治める~(ふるさとメール2007年12月14日号)

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近代水害の記憶 明治29年の大水害と前御勅使川の終焉(ふるさとメール2008年10月15日号)

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御勅使川扇状地の生命線 石積出(いしつみだし)(ふるさとメール2007年12月29日号)

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近代の治水技術 芦安堰堤と源堰提(ふるさとメール2008年10月31日号)

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堤の原風景(2) 現代に残る霞堤(ふるさとメール2008年12月1日号)

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竹蛇籠 ~現代に残る伝統の治水の技術~(ふるさとメール2009年1月1日号)

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南アルプス市と天井川 (ふるさとメール2009年5月15日号)

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南アルプス市と天井川 その2 (ふるさとメール2009年6月15日号)

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南アルプス市と天井川 その3(ふるさとメール2009年7月15日号)

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能蔵池 赤牛のわん貸し伝説 (ふるさとメール2009年10月15日号)

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御勅使川扇状地の物語 ~1.御勅使川と集落~ (ふるさとメール2010年6月15日号)

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ミクロの世界から見た扇状地の食生活 (ふるさとメール2010年7月15日号)

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御勅使川扇状地を潤す徳島堰 (ふるさとメール2010年9月15日号)

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平安時代の信仰(1) ―御勅使川扇状地の観音信仰―(ふるさとメール2014年4月14日号)

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御勅使川扇状地の物語 ~扇状地で培われた西郡魂~ (ふるさとメール2010年12月15日号)

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新発見レポート ~水と木と石が紡ぐ物語~(ふるさとメール2015年3月16日号)

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何気ない街角に歴史あり(その6)御勅使川扇状地東端部の崖線 (ふるさとメール2018年10月15日号)

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水を求めた扇状地の人々 ~雨乞いのパワースポット長谷寺~ (ふるさとメール2010年10月15日号)

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まちの宝箱~「ふるさと文化伝承館」リニューアルオープン~(ふるさとメール5月15日号)

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防災へのみちしるべ~昭和34年台風7号と台風15号の記憶と記録~(ふるさとメール2019年11月15日号)

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無病息災を願って~八王子社の茅の輪くぐり~(ふるさとメール2020・7月15日号)

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徳島堰開削 350年(ふるさとメール2020年9月15日号)

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開削350年 徳島堰 (2)

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時を超えて響く言葉~なにげない日常をつなぐために~(ふるさとメール2021年3月15日号)

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学び人を育む力~天民義塾と綿引健~(ふるさとメール2021年5月15日号)

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明治29年大水害の記録 その1~水害タイムライン~(ふるさとメール2021年7月15日号)

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明治29年大水害の記録 その2(ふるさとメール2021年8月16日号)

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原七郷の七種の商物に「塩」?~南アルプス市の名産をたどる~(ふるさとメール2022年2月15日号)

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徳島堰ウォーク#1 頭首工(取水口)~小水力発電施設

徳島堰は、韮崎市上円井の釜無川から取水し、南アルプス市曲輪田新田まで伸びる役17kmのかんがい用水路です。寛文5年(1665)、江戸深川の町人徳嶋兵左衛門が甲府藩の許可を得て工事に着手し、寛文7年には曲輪田の大輪沢(堰尻川)まで通水したといわれています。
それから昭和40年代に釜無川右岸土地改良事業によってコンクリート化され、「原七郷はお月夜でも焼ける」といわれた御勅使川扇状地扇央部の常襲干ばつ地域にスプリンクラー網が整備されるまで、開削から300年の間に大雨による埋没など度重なる逆境乗り越え、現在の徳島堰の形となりました。
そんな南アルプス市の豊かな田園や果樹園の景観を守り続けてきた徳島堰ですが、実際どのようにして取水され、どんな旅路を経て私たちの暮らす南アルプス市までその水がやってくるのでしょうか!?今回はそんな徳島堰を流れる水の旅路を追ってご紹介していきます!


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徳島堰ウォーク#2 入戸野バス停~旧樋口村八峰

堰沿いにある入戸野バス停
3つの発電所で大役を終えた徳島堰の水たち。そこからもう少し下流、入戸野沢との立体交差地点に差し掛かると丁度辺りは入戸野地区の集落となります。入戸野沢が水路橋で徳島堰を渡っているすぐ先。堰沿いには石造物とバス停、また集落中心地のシンボルである火の見櫓が並んで現れます。入戸野の町並みと徳島堰の変遷を見守ってきたであろう石造物の背面を流れる徳島堰。堰沿いの民家を見てみると、庭から堰の水面まで降りてこられるよう「つけえばた(洗い場)」が造られている箇所も多く、この徳島堰が集落の生活にいかに根ざし、溶け込んでいるかが伺える場所です。


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徳島堰ウォーク#3 竪沢暗渠~甘利沢暗渠

竪沢暗渠
大難所を乗り越えここらでひと息・・・とは行かないのがタフな徳島堰です!清哲町水上に入ってすぐに、また大きなカーブと描きながら竪沢暗渠へと突入していきます!今はほとんど水の流れが見えない竪沢、その上流に向かって大きく湾曲していくこの光景は確か前にもどこかで見たような・・・。そう、戸沢暗渠と同じような手法を駆使して沢を乗り越えていると考えられますね!


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徳島堰ウォーク#4 大門沢暗渠~御勅使川暗渠出口

大門沢暗渠
旭町上条南割まで指しかかった徳島堰。もう少しで南アルプス市!と言うところで韮崎市区間最後の暗渠が現れます。山梨県指定の一級河川大門沢を潜る大門沢暗渠。大門沢はほんの少しだけ水の流れがある程度の水無川で、周辺の民家などと見比べると天井川化しています。この大門沢暗渠を越えた向こう側にはいよいよ私たちの南アルプス市が見えてきます!徳島堰の水たちもラストスパートです!


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徳島堰ウォーク#5 釜無川右岸第一調整池~徳島堰を跨ぐ掛樋

釜無川右岸第一調整池
徳島堰本体から分水された水たちがようやく辿り付くのは「畑地かんがい調整池」の通称第一調整池です。この調整地から南アルプス市扇状地の地下にはり巡らされたパイプラインを通って果樹園のスプリンクラーへと水が送られていきます!開削から約300年、「南アルプス市を潤す」かんがい用水路として悲願の任務達成となったのです!長い旅路を経てここまでたどり着いた徳島堰。でも皆さん、徳島堰はまだ続いているのを忘れてはいけませんよ!


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徳島堰ウォーク#6 釜無川右岸第二調整池~徳島堰流末地点

釜無川右岸第二調整池
南アルプス市飯野新田地区に入った徳島堰は最後の任務に向けて第二調整池へ分水をしていきます!しかしよく見ると調整池といっているのに溜まっている水の姿が見えないどころか、一面綺麗に整地されたグランドになってしまってるのは一体!?・・。実は第二調整地はこのグランドの地下に貯水のタンクが作られており、グランド自体は地域の人たちへ無料で開放しているとのこと。どこまでも地域想いで太っ腹な徳島堰!この調整ここでも貯められた水たちは地下パイプライン網を通ってスプリンクラーへと送られていきます。頭首工からここまで約16kmの旅路の中幾度となく難所を乗り越えながら、髄所で取水の任務を果たしてきた徳島堰。最後の大役を無事勤め上げてそのエンディングへと進んでいきます!


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山梨最古の桃とブドウは南アルプス市から~遺跡から見つかる果実~

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桝形堤防史跡整備の歩み その1~水の世紀を生きる道標~(ふるさとメール2022年9月15日号)

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枡形堤防史跡整備の歩み その2 ~水の世紀を生きる道標~(ふるさとメール2022年10月17日号)

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桝形堤防史跡整備への歩み その3 ~水の世紀を生きる道標(ふるさとメール2022年11月15日号)

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桝形堤防史跡整備の歩み その4 ともに創る史跡整備 ~水の世紀を生きる道標~(ふるさとメール2022年12月15日号)

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桝形堤防史跡整備の歩み その5 ~水の世紀を生きる道標~(ふるさとメール2023年1月16日号)

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枡形堤防史跡整備の歩み その6~水の世紀を生きる道標~(ふるさとメール2023年02月15日(水)号)

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昭和8年御勅使川砂防工事実況

 昭和8年の御勅使川砂防工事の記念写真をご紹介します。砂防堰堤は流れる土砂を貯めて川の水の流れをゆるくしたり、土砂の流出量をコントロールして、一度に大量の土砂が下流に流れ出て災害を起こさないようにする役目を果たします。
 写真に見える昭和8年施工の第八号砂防堰堤は、『第八号砂防堰堤』という名称で、高さ2.5メートル、長さ96.7メートル、塩沢入口交差点北の南甘利山橋の東側下流に見える砂防堰堤です。ちょうど、御勅使川福祉公園の西端部にあたります。
 出来上がった砂防堰堤の上に座ったりもたれかかったりと、この写真にはざっと数えても150人以上の人々が写っていますね。
 大量の砂や石・セメントを運んだり、手練りでコンクリートを作るなど機械のほとんどなかった昭和初期には、たくさんの人と労力が必要でした。原七郷を含む地元住民の多くが工事労働に従事したそうです。この写真の見つかったお宅のある白根地区飯野でも、大正初期生まれの多数のご先祖様方が、写真の中にいらっしゃることでしょう。
[昭和8年度御勅使川砂防工事実況 (飯野中澤家資料より・南アルプス市文化財課所蔵)]


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前御勅使川を封鎖した穴水朝次郎の報徳碑

 八田地区下高砂の広照寺境内に、八田村誌にも掲載されている石碑があります。
[「錦洞翁報徳碑」平成15年八田村誌より]


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昭和34年災害(伊勢湾台風)の養蚕被害

昭和34年、山梨は大規模な台風災害に見舞われました。まずは、8月13日を中心に大水害を起こした第7号台風が、そして9月26日には強大な暴風雨で県内の藁ぶき屋根の家々をことごとく吹き飛ばし破壊した第15号台風(伊勢湾台風)が立て続けに襲いかかりました。まさにダブルパンチで甚大な被害をもたらしたため、「昭和34年災害」と呼ばれて語り継がれています。
[飯野東条家昭和34年災害資料8「十五号台風による玉穂村の惨状」より(南アルプス市教育委員会文化財課蔵)]

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昭和34年災害と敷島町(現甲斐市)

昭和34年災害資料より、今回は敷島町(現甲斐市)の被害状況写真をご覧いただきたいと思います。昭和34年災害とは、大水害を起こした第7号台風と強大な暴風雨で県内の藁ぶき屋根の家々をことごとく吹き飛ばし破壊した第15号台風(伊勢湾台風)が立て続けに襲いかかり、昭和34年8月から9月にかけて甚大な被害をもたらした一連の災害のことを言います。
[飯野東条家資料5-1・2「敷島町第15号台風被害状況」(南アルプス市教育委員会文化財課蔵)]

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昭和34年の甲西町水害

南アルプス市教育委員会文化財課所蔵の昭和34年災害資料より、今回は現在南アルプス市南部に位置する甲西地区での被害状況写真をご覧いただきたいと思います。 甲西地区は市内に降った雨や湧き出た水が集中する場所で、西側には崩れやすく急峻な南アルプスの山々がせまることから、釜無川右岸のいくつもの天井川が集まる常習水害地帯でした。台風7号と15号が山梨県内全域に大きな被害をもたらした昭和34年においては、その前に到来した台風6号も甲西地区五明耕地をすでに冠水させていたようです。
[「台風6号甲西町坪川決壊による五明耕地(宮沢前200町歩冠水状況)」(飯野東条家災害資料甲西町10~16南アルプス市教育委員会文化財課蔵)]

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